どうしようもなく立ち止まる――長嶋有「愛のようだ」感想

 愛のようだ、というから、本当は愛ではない話なんだと思った。けれどそれは違っていて、

「愛のようだ」と永嶺は短く言った。この湧き上がる気持ちはどうやら、という意味だろうか。

 とあるので、これは愛のようなものの話だった。

 話の中で登場人物たちはたいていのシーンで車に乗っている。車に乗ることについて、主人公の戸倉はこんなふうに考えている。

 停車して発進する。また停車して発進する。車とはそういうものだ。停車して、こうして再び発進するそのつど、これまでの自分たちのやりとりがすべて過去のものだという実感が強まる。

(中略)

 だってもう、あのときとは景色が違う。あのときとも、あのときとも。車に乗っている限り。

 そういう風に感じたいと思うときが、生きていてたくさんある。なにかに失敗したとき、なにかを見透かされて消え入りたい気持ちのとき、誰かを悲しませてうなだれているとき。あるけど我々は大抵の場合、車に乗って移動してない。

 我々は常に、車に乗って移動しながら生きていればいいんじゃないか。生きるのがそんなに単純じゃないことはもちろん知っていながら、そんなことを考える。

 当たり前だけど人間は一生、車に乗り続けていることはできない。ガソリンはいつか切れるし、腕だってだるくなって、疲れる。それに車に乗っていたとしてもいつもすべてが過去のようだと思えるわけではない。

 戸倉は琴美に好きだと言えなかった。言えないままに琴美は帰らぬ人となる。

「ものすごい、フローラルな香りだったよ」

「ポピーなのに?」

 なんて無意味な会話が最後だった。

 俺はあのときバカだったし、そのことはこれからもずっと取り消せない。ずっと斜に構えて生きてきて、気づいたら大事な人に大事な言葉を言いそびれて、そしてこれからもずっと、言いそびれたままだ。

 ラストシーン、車の中で戸倉はそのことに気づく。(「『もう手遅れだって、思い切り気付かされた』の?」) 戸倉は車を停めて泣く。ラジオからは琴美がいつかフェリーの甲板で歌った「キン肉マン」のオープニングテーマが流れている。(ああ、心に、愛がなければ。) この話はここで終わる。

 車に乗り続けることはできないけれど、泣き続けることだってできない。だから戸倉は一時間だか二十分後だかに泣き止んで、それからまた車を出して、どうにかまた生活をしていくんだろうと思う。そして長い時間を経ていつか「あのときとは景色が違う」なんて感慨にふけったりするんだろう。

 だからといってそのことが今この場で役に立つか、喪失感が慰められるのかというと全然そういうことはなくて、今、この車の中には悲しみは悲しみとしてただそれだけがそこにあって、それだけが本当のことなんだと思う。

 生きているとどうしたってどうしようもなく立ち止まらなくてはいけないときがあって、「だから日々を大切にしよう」とか「いつかそれが自分の糧になる」とかの考えとは全く無関係に、そういうときはそういうときとしてただ存在している。

 (いつか車は走り出すけれど)どうしようもなく立ち止まる。生きているとそういうときが、在る。ただ、在る。それを凄く鮮やかに突きつけられた。