父、日産

 父は昭和28年に沖縄の糸満というところで生まれた。かなりの貧乏をしたらしく、子供の頃ガリガリに痩せた姿がほうれん草を食べる前のポパイに似ていたのであだ名が「ポパイ」だったそうである。(ピンとこなさすぎる)

 高校を卒業した後、大学に行きたかったらしいが家が貧乏だったために行けなかった。そこで父は内地へ出稼ぎに出ることにして、当時米軍統治下の沖縄でパスポートを取得し、日産の横浜工場で働きはじめた。昭和47年、19歳の父は横浜で沖縄の本土復帰を迎えたということである。

 2年ほど働き、沖縄に帰って通帳を見てみると預金がまるごと無い。

 預金は祖母(父の母)にみんな使われてしまっていたのだった。「貧乏だからしかたがない」と父は思った。

 とりあえず父は失業保険を受け取ろうと思い、そのためには就活をしなくてはならなかったので何社か適当に入社試験を受けてみた。そこでたまたま受かった会社にその後約40年勤めることになる。働きながら大学の夜間学部も卒業している。

 祖母とは特に縁遠くなることもなく、私から見ると普通の距離感の親子であったように思う。

 思い出してみると父は日産の車にばかり乗っている。パオ、二代目マーチ、ティーダ、今はノート。何か思うところがあるのかもしれないし、別に無いのかもしれない。聞いたことがないのでわからない。

  何を成し遂げたというわけでもないが、尊敬に値する人物だと思っている。